今までのこと
坂口洋太(1年/DF/高卒認定)
はじめまして。1年プレーヤーの坂口洋太です。中学時代からザーッと振り返ってみようと思います。
中学時代中学では鹿児島ユナイテッドFC U-15に入った。小学生の頃からコツコツした練習が嫌いで、技術より身体の大きさでどうにかしてきた。セレクションも、すでに168cmあった身体と得意の直進ドリブルでゴールを量産して合格してしまった。
同期のほとんどは自分より上のカテゴリーのトレセンに選ばれていたので、厳しい3年間になるだろうなとは思っていた。とにかく声を出して、走って、闘う気持ちを見せようとした。普通はそこで技術を埋めるために自主練をするのだろうが、自分はやっぱりしなかった。
やる気を見せていたからか、Aチームの練習に参加したり、大会でベンチ入りさせてもらったりした。でも何もできず、練習の質を下げているのが申し訳なかった。それでも何かを変えようと動くわけではなかった。時間もチャンスもあったのに、もったいないことをしたと思う。
中2になると、自分たちより上手い後輩が入ってきた。彼らは後にクラブユースの九州大会で準優勝する。紅白戦では普通にボコされていた。夏頃までは3年生の試合に出させてもらっていたが、その後は1年生にポジションを取られ、Aチームの試合にはほとんど出なくなった。
同期の遅刻や忘れ物も増え、素行もプレーも悪い最悪の世代と言われるようになった。練習や試合に行くのが楽しくなくなった。いつからかボールに触ることまで怖くなった。ミスをしたくなくて、とにかく目立たないようにキーパーに返すか、ロングキックで飛ばすかしていた。
そんな状態で、代替わり後は消去法でキャプテンになった。チームの雰囲気を締めることも、プレーで活気づけることもできなかった。
中3の夏、ユース昇格の面談で保留を言い渡された。ずっとサッカーをしてきたから、将来の夢はプロサッカー選手と言っていた。でも、上手くなるための努力をしているわけでも、サッカーを観てワクワクしているわけでもなかった。この状態でサッカーのためだけに高校へ行っても仕方がないと思い、2回目の面談を前に辞退した。最後の大会も1回戦であっけなく負けて、もうサッカーはやらなくていいかなと思った。
ここまで読んでもらえば分かると思うが、ジュニアユース出身でキャプテンだったからといって、全然上手くない。
勉強は英語が苦手で、それ以外はまあできる方だった。学年120人ほどの中で10番前後。進路を考える中で、学校で配られた高校一覧にあった高専を思い出した。偏差値もそこそこ高く、最新技術を学べるらしい。
コツコツするのは嫌いだけど、人に誇れる強みは欲しかった。東大生にも勝てるような強みが。受験勉強をするより、早くから専門的なことを学んだ方がいいのではないかと思った。数学と理科が得意だったので、なんとなく自分に合っている気もした。父には進学校を勧められたが、高専に行くことにした。
高専時代もうサッカーはやらないつもりだったのに、後のチームメイトに熱心に誘われて結局サッカー部に入った。部活をしないと生活が堕落するのは分かっていたし、他にやりたいスポーツもなかった。
中学で求められていた、遅刻や忘れ物をせず、ピッチ上で怠慢なプレーをしないという基準を、そのまま同期にも当てはめてしまった。それぞれの基準がある中で、いきなりギャーギャー言われるのは苦しかったと思う。互いに要求して質を高めることも大事だけど、楽しむ気持ちも大事だ。中学時代にそれを感じていたはずなのに、要求ばかりで、その質も悪かった。
当時は基本的に自分が正しいと思っていて、チームのルールにも、監督にも、同期にも先輩にも噛みついていた。自分が動けばチームを良くできると信じていたが、良くなるどころか、むしろマイナスだったと思う。自分はこのチームにいない方がいいのではないかと思うようになった。
勉強は40人ほどの学科で2、3番くらい。1番を取れないのは想定外で、絶対的な1位は同じ中学校のやつだった。入学時は卒業する頃にはスーパーエンジニアやなと思っていたのに、教養科目も専門科目も、わざわざ学校で学ぶことなのかと感じるようになっていた。
高専は自由な時間が多い。その時間を活かせる人にはいい環境なのだろうが、自分は与えられたものをこなすだけだった。小中の知り合いがサッカーでも勉強でも力をつけていく中、自分だけ足踏みしている感じが苦しかった。寮では仲のいい友達がたくさんできたし、悪いことばかりではなかった。でも、ここで成長していくのは難しいと感じた。結局、自分の能力不足だったと思う。
2年の7月に部活を辞め、3月には高専を休学した。大学を受験したいと父に話すと、学校選びをもっと考えるべきだったし、一度入ったなら卒業するべきだと言われた。その通りだと思った。それでも両親は受験を支援してくれて、友人たちも応援してくれた。父との約束は現役で合格すること。この約束はぶち破ります。ごめんなさい。
現役参考書を指示してもらうタイプの予備校に、浪人生に混じって通うことになった。2年の秋頃から通ってはいたが、本腰を入れたのは3月から。数学と物理の高校範囲の公式がある程度頭に入っているくらいで、他の教科はほぼゼロだった。
2年の夏頃までは、選択肢を幅広く持てる学部に行きたくて筑波大学を志望していた。ただ、もう少し志望校を上げたいと思って東大にした。受験のことは全然分からなかったが、チューターには現役筑波の確率が5%、現役東大は0.0何%と言われた。1年あればどこでも行けるだろうという謎の自信があったので、そんなことはないだろうと思っていた。
初めての共通テスト模試は得点率63%。その後も点数は上がったが、大きくは伸びず、東大模試は全部ぶっちぎりの最低判定だった。最後も追い込み切れないまま共通テスト本番を迎え、結果は840点。易化した年だったので、足切りに怯えていた。
この頃、両親が浪人を許してくれた。浪人先の最有力候補は北九州予備校のリベルテコース。共通テスト75%以上で足切りを受けなければ、学費が無料で寮費も半額になるという破格のコースだった。合格より足切りの方が気になっていた自分は、例年足切りが低い理三への出願まで考えた。
結局は理一に出願し、足切りを突破してリベルテコースに入る権利も得た。合格発表前には北予備に申し込みに行き、結果は64点差で不合格。そして高専を退学して、晴れて中卒になった。現役の夏に高卒認定は取っていたが、高校を卒業したわけではないので、法律上学歴は中卒だ。
北予備と桜岳寮北予備は厳しいと言われるが、自分はそこまで気にならなかった。普通に勉強を頑張ろうとしていれば、そこまでノイズにはならないと思う。なぜか体育祭があって、クラスTシャツを作る文化もある。服にこだわりがないので、今もたまにそれを着て大学に行く。
自分は鹿児島校の桜岳寮に入った。1階の窓は10cmくらいしか開かず、玄関も内側から鍵なしでは開けられない。寮生の脱出防止である。スマホは登校時に渡され、夜の必修自習までに返す。ただ、校舎内での使用は厳禁なので、使える時間はかなり限られていた。自分を律するのが苦手な人には、かなり向いている寮だと思う。
さすがに合格したかったので、めちゃくちゃ勉強した。質の高い勉強法は分からず、とにかく量で押し切った。科目のバランスも考えるべきだったのだろうが、自分に合う方法が1年で見つかるかも分からなかったので、毎日同じリズムでやり続けた。
その年のリベルテコースは珍しく男だけのクラスで、休み時間はみんなでしょうもない話をしていた。友人もでき、受験の話を聞く中で自分の立ち位置も少しずつ分かってきた。下世話な話もたくさんした。
とにかく調子良く勉強することを優先していた。お菓子を食べない、外食をしない、早寝早起きをする。追い込めてる俺かっけーと思いながら勉強していた。考えが浅くても、やれば意外と伸びるもので、現役の時より合格を現実的に感じられるようになった。東大模試の成績は浪人生としてはダメダメだったが、気持ちは現役生だったので、いけいけどんどんだった。
東大を目指す浪人生は、出身校で東大模試を受けさせてもらえることが多いらしい。自分も近くの進学校にお願いしてみたが、さすがに断られた。鹿児島には河合も駿台もないので、わざわざ福岡まで受けに行った。今のところ、人生で一番大きかった中卒の弊害はこの程度だ。両親に余計なお金を払ってもらったのは申し訳ない。
大きくリズムを崩さず共通テストを迎え、及第点は取れた。東大模試があまり良くなかったので、例年合格最低点が低い理二も考えたが、勢いが大事だと感じて結局理一に出願した。
本番はあり得ないくらい解けなかった。鹿児島に帰ってからは完全に諦めモードで、後期の勉強にも力が入らなかった。そんな状態で合格発表のボタンを押すと、赤い合格の文字が出てきた。ただただ嬉しかった。点数開示で分かったのは、合格最低点との差が1.06点だったこと。理二に出していたら落ちていた。
入学後浪人時代、リベルテの友人がア式に入りたいと言っていて、自分も少し興味を持つようになった。サッカーが特別好きなわけではない。でも、これだけ長くやってきたのだから、上手くなって、最後くらいいい思いをして辞めたかった。ア式のサッカーのやり方は今までと違っていて、ここなら上手くなれるかもしれないと思った。
中学で求められていた、遅刻や忘れ物をせず、ピッチ上で怠慢なプレーをしないという基準を、そのまま同期にも当てはめてしまった。それぞれの基準がある中で、いきなりギャーギャー言われるのは苦しかったと思う。互いに要求して質を高めることも大事だけど、楽しむ気持ちも大事だ。中学時代にそれを感じていたはずなのに、要求ばかりで、その質も悪かった。
当時は基本的に自分が正しいと思っていて、チームのルールにも、監督にも、同期にも先輩にも噛みついていた。自分が動けばチームを良くできると信じていたが、良くなるどころか、むしろマイナスだったと思う。自分はこのチームにいない方がいいのではないかと思うようになった。
勉強は40人ほどの学科で2、3番くらい。1番を取れないのは想定外で、絶対的な1位は同じ中学校のやつだった。入学時は卒業する頃にはスーパーエンジニアやなと思っていたのに、教養科目も専門科目も、わざわざ学校で学ぶことなのかと感じるようになっていた。
高専は自由な時間が多い。その時間を活かせる人にはいい環境なのだろうが、自分は与えられたものをこなすだけだった。小中の知り合いがサッカーでも勉強でも力をつけていく中、自分だけ足踏みしている感じが苦しかった。寮では仲のいい友達がたくさんできたし、悪いことばかりではなかった。でも、ここで成長していくのは難しいと感じた。結局、自分の能力不足だったと思う。
2年の7月に部活を辞め、3月には高専を休学した。大学を受験したいと父に話すと、学校選びをもっと考えるべきだったし、一度入ったなら卒業するべきだと言われた。その通りだと思った。それでも両親は受験を支援してくれて、友人たちも応援してくれた。父との約束は現役で合格すること。この約束はぶち破ります。ごめんなさい。
現役参考書を指示してもらうタイプの予備校に、浪人生に混じって通うことになった。2年の秋頃から通ってはいたが、本腰を入れたのは3月から。数学と物理の高校範囲の公式がある程度頭に入っているくらいで、他の教科はほぼゼロだった。
2年の夏頃までは、選択肢を幅広く持てる学部に行きたくて筑波大学を志望していた。ただ、もう少し志望校を上げたいと思って東大にした。受験のことは全然分からなかったが、チューターには現役筑波の確率が5%、現役東大は0.0何%と言われた。1年あればどこでも行けるだろうという謎の自信があったので、そんなことはないだろうと思っていた。
初めての共通テスト模試は得点率63%。その後も点数は上がったが、大きくは伸びず、東大模試は全部ぶっちぎりの最低判定だった。最後も追い込み切れないまま共通テスト本番を迎え、結果は840点。易化した年だったので、足切りに怯えていた。
この頃、両親が浪人を許してくれた。浪人先の最有力候補は北九州予備校のリベルテコース。共通テスト75%以上で足切りを受けなければ、学費が無料で寮費も半額になるという破格のコースだった。合格より足切りの方が気になっていた自分は、例年足切りが低い理三への出願まで考えた。
結局は理一に出願し、足切りを突破してリベルテコースに入る権利も得た。合格発表前には北予備に申し込みに行き、結果は64点差で不合格。そして高専を退学して、晴れて中卒になった。現役の夏に高卒認定は取っていたが、高校を卒業したわけではないので、法律上学歴は中卒だ。
北予備と桜岳寮北予備は厳しいと言われるが、自分はそこまで気にならなかった。普通に勉強を頑張ろうとしていれば、そこまでノイズにはならないと思う。なぜか体育祭があって、クラスTシャツを作る文化もある。服にこだわりがないので、今もたまにそれを着て大学に行く。
自分は鹿児島校の桜岳寮に入った。1階の窓は10cmくらいしか開かず、玄関も内側から鍵なしでは開けられない。寮生の脱出防止である。スマホは登校時に渡され、夜の必修自習までに返す。ただ、校舎内での使用は厳禁なので、使える時間はかなり限られていた。自分を律するのが苦手な人には、かなり向いている寮だと思う。
さすがに合格したかったので、めちゃくちゃ勉強した。質の高い勉強法は分からず、とにかく量で押し切った。科目のバランスも考えるべきだったのだろうが、自分に合う方法が1年で見つかるかも分からなかったので、毎日同じリズムでやり続けた。
その年のリベルテコースは珍しく男だけのクラスで、休み時間はみんなでしょうもない話をしていた。友人もでき、受験の話を聞く中で自分の立ち位置も少しずつ分かってきた。下世話な話もたくさんした。
とにかく調子良く勉強することを優先していた。お菓子を食べない、外食をしない、早寝早起きをする。追い込めてる俺かっけーと思いながら勉強していた。考えが浅くても、やれば意外と伸びるもので、現役の時より合格を現実的に感じられるようになった。東大模試の成績は浪人生としてはダメダメだったが、気持ちは現役生だったので、いけいけどんどんだった。
東大を目指す浪人生は、出身校で東大模試を受けさせてもらえることが多いらしい。自分も近くの進学校にお願いしてみたが、さすがに断られた。鹿児島には河合も駿台もないので、わざわざ福岡まで受けに行った。今のところ、人生で一番大きかった中卒の弊害はこの程度だ。両親に余計なお金を払ってもらったのは申し訳ない。
大きくリズムを崩さず共通テストを迎え、及第点は取れた。東大模試があまり良くなかったので、例年合格最低点が低い理二も考えたが、勢いが大事だと感じて結局理一に出願した。
本番はあり得ないくらい解けなかった。鹿児島に帰ってからは完全に諦めモードで、後期の勉強にも力が入らなかった。そんな状態で合格発表のボタンを押すと、赤い合格の文字が出てきた。ただただ嬉しかった。点数開示で分かったのは、合格最低点との差が1.06点だったこと。理二に出していたら落ちていた。
入学後浪人時代、リベルテの友人がア式に入りたいと言っていて、自分も少し興味を持つようになった。サッカーが特別好きなわけではない。でも、これだけ長くやってきたのだから、上手くなって、最後くらいいい思いをして辞めたかった。ア式のサッカーのやり方は今までと違っていて、ここなら上手くなれるかもしれないと思った。
現状はダメダメだ。自分より上手い人が、自分より真摯にサッカーと向き合っている。勉強も全然で、成績はすこぶる悪い。
また勘違いしているのだと思う。無茶苦茶を言う自分を両親は支えてくれたし、友人たちも仲良くしてくれた。良い環境を与えてもらっていること、人に恵まれていることへの感謝を忘れてはいけない。
これ以上チャンスを逃してはいけない。
コメント
コメントを投稿