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A brief account of my soccer life

伊藤大知(1年/DF/土浦第一高校) Daichi Ito 2025, August 17th This essay tells you a little of my soccer life. I hope you will learn a little bit about me by reading it. When I was six years old, I started playing soccer and practiced every day. In 2018, I decided to join the team because I really wanted to improve my soccer skills. After that, I started to work harder on my skills in a competitive environment and gradually I was able to become a starting player. In the summer of 2019, I got a serious injury for the first time and was not able to participate in games. About three months later, my injury healed and I returned to the soccer field. However, I was shocked because my skills had noticeably declined. So I worked out using my frustration as a springboard. Although I did my best, I could not stand out among teammates. Overall, it was a difficult time in junior high school. On the other hand, I learned the importance of perseverance, which certainly improved myself both mentally and physicall...

儚くなんかない

馬塚天志郎(1年/MF/桐蔭学園高校) プロサッカー選手になる確率は0.2%以下らしい。これは、現在のJリーガー約1800人をサッカー人口約75万で割った数字である。この中でサッカーを遊び程度にやっている層を抜いたとしても、確率はやはり0.5%以下だろう。また、Jリーガーでもサッカーだけで生活できる層は極端に少なく、大半は他の仕事と両立してなんとか生活できるレベルだ。プロサッカー選手とはそういう職業なのである。 サッカーを真剣にやっている人は、必ずと言っていいほどプロサッカー選手を目指す。しかし、大半はどこかで諦める。サッカーを辞める。もしくは、真剣にやるけどプロは目指さないという、絶妙な距離感でサッカーと付き合うことになる。もちろん自分も後者の1人であって、プロを目指すわけではないが、遊びでやるわけでもない。 このような付き合い方が1番難しいのは言うまでもない。サッカーが好きで上手くなりたいから練習に真剣に取り組む。練習前のストレッチは欠かさないし、常にどうすれば上手くいくかを考えながらプレーする。だからといってオフの日に1人で自主練をする訳ではない。オフが増えれば喜ぶし、ランメニューはできることならやりたくない。サッカーを好きなのか嫌いなのかはっきりとしない。 なぜ、このような状態になるのか。 第一に、「なりたい/なりたくない」以前に、自分がプロサッカー選手に「なれない」ことを悟ってしまう。現実を見てしまう。 自分はいつ悟ったのだろう。 明確なきっかけがあるわけではない。小中高とサッカーに関わることは常に挫折を伴っていたが、「〜のプレーを見てプロになれないと思った」などという明確なものはなかった。むしろ、自分の周りにはうまい奴がたくさんいたが、いつも心の中では「大したことなくね」と思っているタイプだった。本気を出せば自分でもそのレベルに行ける自信もあった。しかし、それはもちろん過信であって、なかなか上手くならない。理想と現実の距離に落ち込む日々が続く。そして、小さな挫折を重ねるうちに、なんとなく「プロにはなれない」と悟ってしまった。もっとわかりやすく言えば、冷静に自分のサッカー選手としての価値を考えられるようになった、適切に評価できるようになったのだろう。 いまでも、プロの試合を観に行くと「いつかこういう場所でやりたい」と思う。しかし、その可能性は限りなく0に近...

勝利への渇望、そして、不撓不屈の精神

大城悠真(1年/DF/ 渋谷教育学園幕張高校 ) 一年プレイヤーの大城です。ア式蹴球部への入部feelingsということですが、高校のことを振り返りすぎてほとんど高校卒部feelingsになりました。ご容赦ください。 勝つために必要なことは何だろうか。技術、フィジカル、精神力、挙げ出したらキリが無いほどあるだろう。しかし、全て高い基準で兼ね備えた選手なんてそうそういない。自分はサッカーが下手だ。単純にボールを扱う技術もなければ、持っている技術で器用にプレーする能力もない。だからこそ自分が持つ手札で精一杯勝負する。それが自分の高校時代のサッカーだった。 高一の時、入ったばかりの時はチームについて何一つわかっていなかった。毎日のきつい走り練や筋トレをただしんどいと思いながらこなし、練習では下手すぎて何度も怒られた。公式戦はというと、自分はベンチで試合を眺めることしかできなかった。試合に出たい気持ちは大いにあったが、今思えばきっと試合に懸ける思いは大したものじゃなかったのだろう。 初めて試合に出た時、自分のチームは0−2で負けていた。自分の役割は明らかだった。でも何もできなかった。死ぬほど悔しかった。苦しい思いに耐えながら練習して、ようやく出た試合でチームの足を引っ張った。自分の未熟さを思い知った。自分には何もかもが足りていなかった。 そして一回目の選手権。初戦は予選リーグ最終節で、圧勝していたこともあって最後の方に少し出してもらえた。勝っていたとはいえ負けたら終わりの試合で出場する緊張感は、それまで感じたことのないものだった。そして勝ち上がった決勝トーナメント一回戦、相手は同格の相手だった。自分は試合に出ることはできなかったが、先輩たちの3年間を締めくくる試合にとても胸を打たれた。自分が苦しいと思っている一つ一つの練習を真剣にコツコツと毎日続けることがどれだけ力になるかを実感した、とても印象的な試合だった。 高二の時、怪我人が多かったチーム状況もあってのことだが三年生たちが引退したことでスタメンになった。それによって急にプレーが大きく変わるかといえば、そんなことはない。さらにリーグ戦で昇格したことで相手のレベルも上がり、求められる能力も上がった。練習する度、試合をする度にしょうもないミスを繰り返して、監督に怒られて、何度も自分の未熟さを感じる、そんな毎日だった。そして大...

久遠の道に 標の光

甲斐田健太(1年/MF/ ラ・サール高校 ) ア式に入ってはや半年、 Feelings を書く時がやってきた。   Feelings の存在はかねてから知っており、いくつかの作品を読んでいるので大体どんな感じかよくわかっている。書いた人がどういう人生を歩んできて、普段何を考えているのかが少しわかるようになる気がしている。   面白い文章や戦術論を語るのもまた一つだが、自分の持ち合わせている文章力と頭脳を考慮すると、おとなしくこれまでの人生を振り返り、少しでも自分のことを知ってもらう方がよさそうな気がする。     現時点での自分のサッカー人生を振り返ってみて、その要素は何だろうかと考えたとき、小学校3年~5年よりも、大部分を占めているのは、ラ・サールであった。   そう、私はあのラ・サール出身なのである。 こう書くと、かつて類い稀な文章力で旧ツイッター民に衝撃を与え、現在のア式にもその名を轟かす自称「Y」さんを思い出す人もいると思われるが、ラ・サール生がみなあのような優れた文を書くわけではない、ということだけここでは伝えておきたい。   何が大部分を占めているのかははっきりとはわからない。ただ、鹿児島、カトリック、男子校、スマホ禁止の寮、といった具合の説明をするだけで伝わるであろうカオスさが、それまでの平和な人生に一時のバグをもたらすような力を持っていたのだと思う。     考えてみれば、ラ・サールでの 6 年間はサッカーにあふれていた。朝起きて学校に行き、授業が終われば部活をする。暇な休日は朝起きてサッカーをし、昼飯を食べたらサッカーをし、コンビニでアイスを食べ、夕方からの * 日曜サッカー部に備える。テスト期間さえ、一日の終わりにはサッカーをし、学校の先生に叱られれば寮に戻って廊下で * スリッパサッカーをし、それもダメなら部屋でサッカーダイジェストを読む。サッカーの実力が時間だけで決まるとしたら、全国大会に進めるんじゃないかと思ってしまうようなストイックぶりである。 ( まさか、映画やラウワンに飽きてサッカーくらいしかすることがなかったというわけではあるまい )   * 日曜サッカー部…平日はそれぞれの活動に従事し、日曜にサッカーをする人の総称 * スリッパサッカー…スリッ...

僕とサッカーと夜飛ぶ梟

  野澤柊斗(1年/DF/湘南高校) feelingsを書くにあたって、ちゃんと書いていそうな先輩の作品を読んだら、初めに名前とかをちゃんと書けってやじさんが書いてたって髙木さんから聞いたって書いてあったので自己紹介から始めます。 こんにちは、東京大学前期教養学部理科一類の1年で、ア式蹴球部に所属している野澤柊斗です。生まれは新潟、育ちは神奈川。湘南高校という(四年制の)高校の出身です。 伝統を重んじる湘南生らしく、多くの先輩たちに倣って、今回はア式に入るまでのことを書こうと思います。ここからは敬体をやめます。 サッカーは年長のときに始めた。最初はサッカースクールに通うだけだったが、小二からはクラブチームにも入った。中学もそのクラブチームのジュニアユースでプレーした。 高校ではサッカー部に入った。入部してすぐ、理由はよく分からないが期待されていたのか、Aチームに合流した。そして、練習試合でセンターバックとして先発することがあった。前半20分を過ぎたあたりで事件は起きた。サイドバックからボールを受け、一度キーパーに戻そうとしたのだが、パスが短すぎた。相手のFWへのドンピシャのスルーパスとなり、一点を献上。その試合のあと、Bチームになった。この事件がなくとも時間の問題だったとは思うが、直後にBチームに落ちたので、同期からはめちゃくちゃイジられた。そこから1年生の残りはBチーム、2年生になってからはCチームでプレーし、次にAチームに上がったのは先輩が引退して、自分たちの代になった時だった。代が変わるタイミングで僕は部長になった。(よく間違われるが、僕は部長であって、キャプテンではない。)部長になって感じたのは、それまでの自分の甘さだった。チームを引っ張っていくことを求められて初めて、ピッチ内でもピッチ外でも、それまでの自分がいかに無責任だったかを痛感した。部長としての最後の1年間は今振り返っても楽しいというよりはむしろ苦しいものだったが、責任感をはじめとして、僕に多くのものをもたらした。役割が人を作ると言うが、今の僕の基礎になっているのは間違いなくこの部長としての経験だと思う。 部活を引退したのは10月の半ばだった。それまで塾にも行かず、授業以外でろくに勉強をしてこなかったこともあり、自分なりに頑張ってはみたものの、現役合格は叶わなかった。 なぜ東京大学を目指した...

美しい生き方

市毛 慎太郎(1年/テクニカル/開成) 双青戦のスカウティングを終えて心に余裕ができたと思っていたが、そういえば僕は考え事をすると自己嫌悪に向かって行ってしまう人間なのであった。 そんな勢いで執筆し始めたもんだからクソ重feelingsになるところだったではないか。あぶないあぶない。ちょい重くらいが丁度よいのだよ。 僕は人生を「美しい」ストーリーとして生きようとする癖があるのではないか、と最近感じている。 feelingsを書くということは、自分の半生をストーリー仕立てに組み立ててみる作業とも言えると思うが、予め「美しい」ストーリーを自分でなんとなく作ってしまって、ぼんやりとそれに沿って進んでいくような感覚。これは決して僕が計画性のある人間であるというわけではなく、ぼーっと生きているからこそ現れてしまう癖なのだろう。 そんな癖が最も現れたのがサッカーを辞めた時であったように思う。 中3から高1へと進級する4月1日、僕はサッカーを辞めた。 サッカーを始めたのは小1の頃だった。父親がアントラーズサポーターの家庭で育ち、幼稚園の頃からJリーグをよく見ていた僕にとっては自然な流れだった。とはいえ、元々体も小さかったし、運動も得意な方ではなかった。スポーツテストは万年D判定。特徴のないサッカー少年だった。 小3の時、サッカーへの視点が変わった。勉強ができた僕は、「走り回るんじゃなくて、頭を使ってプレーしろ、チームの心臓になれ」と言われてボランチをやるようになった。別にア式の選手たちほど考えながらサッカーしたわけではないけれど、ボランチでのプレーは何となく楽しかった。 中学に入ると迷わずサッカー部に入った。 最初の方は学年の中では上手い方ではあったけど、次第にBチーム、Cチームが定位置になっていった。中学では身体能力面での不利を実感する場面が多かった。これは努力不足に対する言い訳に過ぎないと思う。そんな言い訳を口にすることは決して無かったけれど、中学からサッカーを始めた人がどんどん上手くなっていく様子を目の当たりにすると複雑な気持ちであった。 そして中2の文化祭の時に初めて、サッカー部を辞めることが頭をよぎった。兼部していた天文気象部で文化祭準備に関わったのが非常に楽しく、もっとこっちにコミットしたいと思うようになったのだ。 この感覚は中3になっても変わらず、中3の秋の時点で高...

HASTA EL FINAL, ¡VAMOS REAL!

松沼知輝(1年/MF/渋谷教育学園幕張高校)  こんにちは。プレイヤーの松沼です。 HASTA EL FINAL, ¡VAMOS REAL! これは自分の好きなレアル・マドリードの試合前、ゴール裏に張り出される大きな大弾幕に書かれている文言で、別に座右の銘とかでは無い。これの意味するところは大体「最後まで闘え」といったようなことである。 そのレアル・マドリードの試合を観戦していた時、この横断幕が目に入ってふと考えたことがある。これまでの人生で、自分で「やり切った」と思えるほど最後まで闘えたものはあっただろうか。 習い事は、サッカーの他にピアノと水泳をしていた。どちらも自分でやりたいと言って始めたと思う。多分。ピアノは1年くらいで飽きてやめた。3歳くらいで始めた水泳は、そこそこ頑張ったけど、小2くらいでやめた。 大学に入ってまでやっているのだからサッカーはと思うかもしれないが、これも連続的に続けた期間はそう長くはなかった。その経緯はア式に入った経緯にも関わってくるので、少し詳しく書いてみようと思う。 小学1年生、地元の少年スポーツ団で本格的にサッカーを始めた。 ディフェンダーで、比較的身体も大きく自信を持ってサッカーができた。小さな大会で優勝したりもした。自信を持ってサッカーをしていた。小学4年生、サッカーが上手くいかなくなった。コートが大きくなって、ディフェンダーにはロングボールをヘディングで返す能力が求められた。空間認知能力に欠いた自分はよくボールを処理できずに落とした。ボールを落とすと怒られる。ロングボールが怖くなった。自信がなくなってきた。 小学5年生、自信をなくしたままサッカーを一旦辞めた。中学受験のためである。 中学1年生、サッカーを再び始めた。 進学校で、かつサッカー部がそこそこ強い渋谷幕張に入学した。新たな環境で始めるサッカーに心を躍らせた。ポジションバランスの関係からここでもディフェンダーを務めた。周りにはサッカー経験があまりない部員もいた。同学年の中で比較的上手い方だと思って、少し自信がわいた。自信というよりも、慢心だった。1年生対2年生の紅白戦で自分は圧倒され、ビビって何もできていないという現実からは目を逸らした。 中学2年生、サッカーを再び中断することになった。 コロナ禍である。自粛期間の間に体幹を鍛えるという試みもしたが、飽き性ですぐ...